| 2012.02.11 | 第64回:雲竹斎先生の歴史文化講座−「中東・アラブ社会 (12)」 | |
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| 肥沃の三日月地帯(歴史1) 中東における人類の生活の歴史は非常に古く、ガリラヤ湖の南にある旧石器時代の遺跡はおよそ90万年から70万年前のもと言われている。また、シリア北部のユーフラテス川流域においても、紀元前7000年頃の原始農村の跡が日本の考古学調査隊によって発見されているし、イスラエルのエリコの遺跡でも同時代の村落があったことがわかっている。 紀元前数千年の頃、トルコに源を発したチグリス川とユーフラテス川とに挟まれた一帯に、世界で最初に農業、牧畜による生産を開始し、高度な文明が築かれていった。現在のイラン・イラク南部で、これをメソポタミア文明といい、シュメール人という人種により世界最初の都市国家が形成され、豊かな大地の恵みを受けて麦を栽培しパンを焼きビールを醸造して、高度な文化を育んでいった。彼らは、税の徴収や穀物取引などの経済活動の記録をするため、「楔形文字」を発明して、粘土で造られた板に記録をしていたが、その記録によるとチグリス・ユーフラテス川から、この地に張り巡らせた運河によって潅漑農業が発達し、大麦の収穫量は蒔いた種の70?80倍だった。また彼らが醸造し愛飲していたビールも、30種類以上の銘柄もあったというから、シュメール人の文明は非常に高度だったと推測される。このメソポタミアからパレスチナ(イスラエル、ヨルダン)、シリア一帯は「肥沃な三日月地帯」と呼ばれて文明が発展していった地域でもあった。この高度な文明を築いたシュメール人はどこからやって来たのか不明だが、その後アラビア半島はアフリカ大陸やアジアからの民族大移動の十字路となっていったのである。 ここは、『旧約聖書』の舞台となったところで、アブラハムが神の祝福を受け、ヤコブが神と闘って勝ちイスラエルと改名した地である。そして、エジプトからモーセがヘブライの民を率いてやってきて、神ヤハウェと契約したのもこの地だった。また、イエスが洗礼を受けて布教活動し、ゴルゴダの丘で十字架に懸けられて、その恨みからローマ帝国によってユダヤ人が追い出されたのもこの地である。さらに、ムハンマドが出てイスラム教を興し、巨大な帝国を建設して首都をおいたのもこの地だった。その結果、現在は混乱の坩堝と化してしまったのである。 紀元前3500年頃、言語学的に「セム語族」と呼ばれる人種が、メソポタミアを中心にして、この肥沃な三日月地帯に移動してきた。これが「第一次セム語族の大移動」と言われ、第2回目は紀元前2500年頃、第3回目は紀元前1500年頃、第4回目は紀元前500年頃と、都合4回にわたって大移民団がやってきたという学説がある。この学説によると、最初に文明を築いたシュメール人による都市国家は、メソポタミアの北部に移住してきたアッカド人にとって代られ、第二次セム語族の大移動でやってきたアッシリア人やバビロニア人などが次々と国家を統一し、この肥沃な三日月地帯もエジプトを含めて覇権争いの戦場となっていったという。 このアッカド王国を滅ぼし、バビロンを首都としたバビロニア帝国第6代のハンムラビ王は、「目には目を、歯には歯を」という刑罰で有名な『ハンムラビ法典』を制定し、果敢に遠征を繰り返して領土を拡大しただけでなく、運河の開通や潅漑の整備などで農業を振興させて、この地をオリエント第一の穀倉地帯にしていった。そして、現在のトルコ地方に展開していたヒッタイトは、鉄製武器と戦闘馬車による新戦術でこの地方を蹂躙した。紀元前1285年頃の現シリアのカデシュでラムセス二世(エジプト第19王朝)の戦車兵団を壊滅させたのは歴史上有名である。 また、同じ第二次セム語族の大移動で、カナン人とよばれる民族はシリア西部からヨルダンにかけた地中海沿岸地方に移住して、商業的な都市や港湾型都市を建設していったが、このカナン人が、後にギリシャ人によってフェニキア人と呼ばれた人種である。この民族が発明した文字がフェニキア文字といって、現代のアルファベットの基になったといわれているが、彼らの商業民族という性格から航海術が発達しており、独自の文字の開発・発明が必要不可欠だったと思われる。この航海の上手な商業民族は、東西の交易によってメソポタミア、エジプト、エーゲ文明を融合していったのだが、地中海の至る所に植民地を持ち、例えばチュニジアのカルタゴなどはフェニキアの植民地として建設されて、次第に強国となってローマと覇権を争った。この戦いが有名なポエニ戦争である。彼らの交易品は、貴金属を始めとする装飾品や衣料、食品、家具調度品から武器に至るまで有りとあらゆるものだったが、特にこの地方からの産物としてはブドウ酒、オリーブ油、ガラス製品などの他、レバノン山脈から伐採されたレバノン杉は、樹木の少ないメソポタミアやエジプトでの必需品だったし、悪鬼貝の一種から採れる染料は「フェニキア紫」と言って珍重されて、西洋では無くてはならないものだった。 ≪閑話≫外観ではわからない(カスバ) 友人のなかには「カスバの女ってぇ唄があるじゃぁないか。カスバって風俗店か?」と言ったものがいる。かなり以前だが、『カスバの女』という演歌が流行した時代があった。そこからハーレムとかベリーダンスなどのイメージと重なって、歓楽街だと想像するのかもしれない。カスバは中世から人々が生活している旧市街のことである。そういうと、友人たちは一様に興醒めしたような顔をするが、カスバは場所によってはメディナとも呼ばれている。メディナという地区とカスバという地区が一緒になっている町もある。このカスバとメディナの違いは、地方の役所や公共機関などを有する中心都市を「カスバ」といい、地方の中小都市を「メディナ」と呼んだ時期があったが、近世では呼び方に区別がなくなり、今では混然としている。そこから、カスバは要塞でメディナは一般庶民の住宅街だという人もいる。 ちなみに、こういった中世からの街には必ず設置される五つの施設がある。モスク、学校、隊商宿、市(市場)、銭湯の五つだが、大きな町では街区ごとに、この五つの施設が設置されている。現在では、生活上の便利さもあって、平坦な場所に広い道路と大きなビルが建つ新しい街が形成されているが、旧市街に住む人々は古い街並みに大きな誇りを持っている。 このような昔からの街は、中世のヨーロッパの都市と同じで、街全体が高い城壁に囲まれている。だから城塞都市であったことは間違いない。街の中は道路が狭いうえに曲がりくねっていて、家畜や人間が通るのがやっとである。この道路に面した家の壁は日干し煉瓦を積んでその上から泥を塗っただけの、しかも窓がほとんどないお粗末なもので、壁が非常に分厚い。どの家も外側から見れば区別がつかない。それは、敵が侵入してきても迷ってしまうように、わざと外観を同じような造りにしているのだが、道路が狭くて窓がなく壁が分厚い作りなのは直射日光を防ぐ目的もある。しかし、外観はお粗末だが、内に入るとそこは別天地の様相を呈している。家が「回」の字型をしていて、真ん中にタイル張りの中庭があり、中庭に向いて数多くの部屋がある。中庭には噴水がある豪華な家もある。このような家の造りはメソポタミア文明発祥のころと変わっていないという。街の中は、狭い道を行き交う人々の喧噪や体臭、それに立ちのぼる埃と共に、家畜の匂いや炊事の煙で一種異様な雰囲気を醸し出している。 ここら辺まで話を進めてくると、友人たちはエキゾチックなロマンを求めて行ってみたいとか、そんな汚いところへ行きたくないとか、がやがや騒がしくなり、話をする雲竹斎の忍耐にも限界が来るのだ。 |
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| 2012.01.18 | 第63回:雲竹斎先生の歴史文化講座−「中東・アラブ社会 (11)」 | |
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| 集団礼拝(モスク) イスラム教徒に義務付けられている礼拝は、ごくわずかの宗派を除いては1日に5回することに決まっている。この礼拝は自宅で礼拝してもいいし、出先で時間が来たら礼拝して差し支えはない。ただ、金曜日の集団礼拝はモスクで行われる。『コーラン』の第62章には、「集団礼拝の呼びかけがあったら商売を離れろ」とも書いてある。もちろん、それ以外の日でもモスクに行って礼拝するのは自由である。金曜日のモスクに行って正午の礼拝を集団で行うのは、キリスト教徒が日曜日に教会に出かけて行ってお祈りするのと同じようなことだが、ユダヤ教徒の土曜日、キリスト教徒の日曜日が聖なる安息日だから、それと同じだと言うのは正確ではない。あくまでも礼拝の日であって休息の日ではないのだが、公官庁や商店が休日になることが多い。中東に住む日本人は、金曜日はイスラム教徒、土曜日はユダヤ教徒、日曜日はキリスト教徒と日本人が仕事をしないから毎週3連休になる。とはいえ、そんなことをしていたら仕事にならないから苦労している。 金曜日は、前日もしくは当日の早朝、風呂に入って身を清め、当日はモスクの水場で手足を洗い、口を漱いでから、集団で祈る。モスクの内部には、メッカの方角の壁に「ミフラーブ」と呼ばれる窪みがあって、民衆はイマームに従い、このミフラーブのある壁に向かって整然と祈る。聖地メッカの方角を「キブラ」と言うが、そのキブラに向かって人々は祈るから、いわばミフラーブは目印のようなもので、モスクのない砂漠のようなところでは、棒や足の先で[のような印を付けてミフラーブの代わりにする。また、ホテルなどでは、部屋の壁にメッカの方向を示す矢印が張ってあり、客が礼拝するための便宜をはかっている。 モスクは天井がドーム型をした建物で、内部は絨毯やゴザなどが敷かれているだけで祭壇とか椅子などは置いてなく、また絵画なども飾ってない殺風景な大部屋だが、ただミンバルという説教台があって、そこで導師である「イマーム」と呼ばれる長老が説教を垂れる。 モスクは金曜日の集団礼拝だけにあるのではない。有名なモスクには聖人の墓もあるので遠くから巡礼に訪れる人も多い。ふだんの日でも人々が祈りに来ているし、いつも人々の訪問が絶えることがない。子供が大声を上げて堂内を走り回っている光景や、大人たちが昼寝している場面に遭遇することがある。人々は用があってもなくてもモスクに行く。モスクは人々の心をいやしてくれる場所でもあるのだ。 ≪閑話≫ モスクは豪華な建物ではない モスクはイスラム教徒が礼拝する礼拝堂である、ということは友人たちも知っている。一般にモスクという名称で知られているから、アラビア語だと思っている友人も多いが、モスクは英語の訛ったもので、アラビア語では「マスジド(ひざまずく場所の意)」と言う。これがスペインにイスラム教が入り「モスキータ」になり英語でモスクとなった。これがまた中東に入ってきて「モスク」で通用するようになったのだと言えば不思議そうな顔をするのがおもしろい。 また、写真で見るモスクは「金色のドームがある豪華なお城のようなものだ」と言う友人もいる。しかし、豪華だというのは、一般的に日本人が雑誌に掲載されている写真などで知っているモスクが、イスラム教国の中でも非常に有名なモスクで、帝国時代に王様の命令によって建築されたものが多く、また歴史的にも古い建物だからで、したがって建築資材は惜しまなかっただろうし、また民衆の奉仕も多くなされたであろうから、ドーム状の屋根は黄金色に輝いていたり、ラピスラズリやそれを模したアラビアンブルーと称されている青い色をしていたり、また付属する塔(ミナレット)が何本もあったりする。しかし、一般的には決して豪華な建物ではない。モスクはどんな小さな村でも建てられるが、村人たちの寄付と奉仕によって造られるから、ほとんどはこじんまりとした質素な建物である。 モスクのなかには、天井の装飾や壁のタイルにも、アラベスクと呼ばれるアラビア装飾が描かれているし、いたるところにアラビア語の装飾文字で「アッラーは偉大なり」とか、コーランの一節などが書かれたタイルが張られていて、そういった点では、非常にきれいで豪華なモスクもある。サウジアラビアとかクウェートなど産油国のお金持ちが寄付して建設したモスクの中には、非常に立派なものもあることは確かだが、ほとんどはミナレットも一本で、屋根も決してきらきら輝いてはいない、などと言うと、友人たちは夢を壊された等な気分にさせられるのだろうか、おもしろくなさそうな顔をする。 ところで、モスクの一番後ろが女性の礼拝する場所と決まっている。もっとも、女性は家で礼拝する者が多く、モスクで集団礼拝をする者は少ないのだが、これは男尊女卑の思想からではなく、女性の祈っている後ろ姿を見て卑猥な連想をする男性がいるからだ。お祈りは額を地面に付けて祈るからお尻が持ち上がる。中東に駐在していた頃「ケツをあげている姿はたまんねぇからなぁ」と運転手のムレハメッド氏は、黄色い歯をむき出して言った。「後ろに立って見ると、特別な理由もなく大きなお尻を蹴飛ばしたくなるから不思議だ」とも、この男は言った。彼はアッラーの天罰が下って、晩年には半身不随になって口も利けなくなった。雲竹斎も、重労働になると決まって礼拝をして仕事をさぼるやつがいたから、思わず高く上げた尻を蹴っ飛ばしてやりたい気持ちをぐっとこらえた時が何度もあった。だから、もしかすると、近々半身不随になるのではないか、と心配だ。友人たちは、こういった話の時だけは顔を乗り出してくるから嫌になる。 ≪閑話≫ モスクの塔には登ってはいけない モスクには「ミナレット」と呼ばれる塔が付随しており、一般的には一つだが、大きなモスクでは左右にそれぞれ一本ずつ、あるいはモスクを囲むように四本も建っているものもある。時間が来ると、この塔の上から「祈りの呼びかけ」をする。これをアザーンと言う。日本のお寺の鐘楼や教会の鐘を鳴らす塔と同じだと思えばいい。「モスクの塔に登ってみたか」と聞かれることが多い。「特別なモスクを除けば、異教徒がモスクに入ることさえ許されないから、ましてや塔にまでは登れない」と言うと、友人たちは不思議そうな顔をする。ヨーロッパへの観光旅行では、教会の鐘楼に上って景色を見せるツアーが多いから、当然、観光客がモスクの塔に登ることができると思っているらしい。 ミナレットは、アラビア語のマナーラ(灯台)から訛った英語だが、本来は烽火台や物見台だったと思われる。また、砂漠をやってくる隊商のための灯台だったという説もある。電気もなく、ランプの明かりに頼っていた時代では、村や町が現在ほど明るくなかっただろうから、ミナレットの天辺にランプを持って昇ると、非常に目立ったことだろう。幾日も幾日も過酷な自然と闘い、精根疲れ果てながらも、遠くにモスクの明かりがわずかに見え、かすかにアザーンの声が聞こえてきたとき、隊商の人々はきっと大地に跪いて神に感謝したに違いない。そして、その明かりを目指して最後の力を振り絞ったことだろう。まさに、砂漠の灯台と呼ぶにふさわしかったと思われる。 1日に5回のお祈りの時間が来ると、ミナレットの上に、ムアッズインと呼ばれる人が立ち、「アッラーは偉大だぞぉ?」とか、「アッラーのほかに神はないよぉ?、モハメッドはアッラーの使いなりぃ?」とか、「お祈りに来いよぉ?、お祈りは睡眠より大切だぞぉ?」などと、肉声で呼び掛けをする。時には、「女どもよぉ〜、大事なところは隠しておけ〜ぃ」などと、『コーラン』の一節を流すときもある。雨が降ろうが雪が降ろうが1日に5回も繰り返すわけだから、ムアッズインの仕事は大変な労働である。ムアッズインは、敬虔な信者で、しかも声も良くなければならないから、田舎の村ではそうそう交代する者がいない。今日は気分が乗らないからやめるとか、風邪をひいたからといって休むわけにはいかないので、今では録音テープを流しているモスクが多くなってきた。 アラブ社会に住んでいる人たちは、毎朝薄暗い内から大音響で流れてくる「ファジルの祈り」と呼ばれる早朝のアザーンに眠りから覚まされる。「蛇足だが、異教徒の雲竹斎には、早朝のアザーンは非常に迷惑だったが、日本に帰国しても、毎朝家内の怒鳴る大音響で目が覚めることには変わりない」などと、たまには、こういった下らないことを言わなければ、友人たちは話に飽きて勝手なことをしはじめる。 しかし、たいがいは、その途中で、お寺の住職である友人が「オレの寺ではだれでも鐘楼にあがらせて鐘を撞けるぞ」と言いだす。すると、必ず「じゃあ、こんどオレに撞かせろ」という友人も出てくるが、「よし、ついでにお説教をしてやる」と言うものだから、「冗談じゃねぇ、おまえのような生臭坊主の話なんか」などという展開になって、こうなると、もう私の話なんか聞かない。 |
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| 2012.01.03 | 第62回:雲竹斎先生の歴史文化講座−「中東・アラブ社会 (10)」 | |
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| 食費がかさみ身体が太ってくる(断食) イスラム教徒が守る戒律のなかで最もきつい「行」は「断食」である。「断食」のことをアラビア語で「ラマダーン」だと思っている人もいるが、「ラマダーン」とは、正確にはイスラムの暦(ヒジュラ暦)で第9番目の月を意味する言葉である。「断食の行」はアラビア語で「サウム」と呼ぶ。この月は、日の出から日没まで一切の食物を口にしてはいけない。食物だけではなく、水はもちろんのこと煙草もいけない。自分の唾液までも飲み込まないで、地面に吐き出している者もいるくらいだが、サウムはヒジュラ暦で第9月(ラマダーン)の新月の翌日から次の新月まで、およそ30日の間行われるが、ヒジュラ歴は、太陽暦とは毎年11日と少しずつのズレがあるから、ラマダーンは真夏の年に当たることもあるし、真冬になる年もある。気候の厳しい時期に当たると非常にきついのはいうまでもない。 この断食は、日の出から日没までのことで、昼間は飲み食いしない代わりに、夜は何度も起きて食事をする。当然、いきなり行っては無理で、何日か前から徐々に身体を慣らしていかなければいけないが、これでは睡眠不足になってしまい、日中は疲れて動けない。それに、断食というイメージとは逆に、夜になって必死に食べるものだから、ふだんの月よりも食費はかかるし、食べては寝て昼間はあまり働かないので、太ってしまう者が多いのは皮肉な話である。 ラマダーンの最中は、さすがにふだんは必要以上に大声で喋りまくっているアラブ人が、声のトーンを落とし、何事にもおっとりと構えている人たちが、更にゆっくりとした動作になって静まりかえってしまうのも無理はないのだが、この時期は、呑気な癖に妙な所で短気なアラブ人は、腹が減っているから余計に気が短くなって、交通事故が多くなったり、喧嘩が多くなったりする。断食をしながら通常業務をこなすのがイスラム教徒の義務であるといわれているし、また、イスラム教徒は、断食をすると胃の中だけでなく、心身共に洗われるような気がするともいうから、それはそれで結構なことだが、日本人の感覚では無理というものである。 この断食の行は、病人や老人子供とか妊産婦、それに旅人や戦場の軍人などは免除される。しかし、それらの人は後日その分の埋合せをして、帳尻を合わせなくてはならないというが、そのような説明をすると、疑う者が必ず出てくる。「本当に埋合せしているのかい?」とか「うそだろう。ありえない」などとわめきだす。こういう疑問は誰しも抱くもので、中国には「回回は三人寄れば回回だ。二人寄っても回回だが、独りになれば回回ではない」ということわざがある。回回(ホイホイ)とは回教徒すなわちイスラム教徒のことである。中国の回族はイスラム教徒だから、そこから日本でも昔の本などには回教徒という言葉が使われたことがあった。このことわざは、イスラム教徒が一人になると戒律は守らないという意味である。また、「戒律の厳しいサウジアラビアの女性は、他国の飛行機に乗って国境を越えると、ベールを脱ぎ酒を飲む」という言葉もある。どちらも、異教徒による断食を皮肉ったものだが、それほど厳しいというものであろう。 しかし、アラブ人たちは「イスラム教徒には断食逃れをする輩は絶対にいる筈がない。なぜなら死後アッラーの御許にはいけないのだから」と断言する。そして、この断食によって心身共に浄めることが出来たのはアッラーのおかげだ、といってお祭りをするのだが、いやはや、凄まじきものは信仰である。 ≪閑話≫ メッカへ一人で行くのは「巡礼」と言わない 友人の多くが、イスラム教徒の巡礼も四国八十八ヵ所のお寺参りと同じようなものだと思っている。「おまえも巡礼したか」と聞くから、「イスラム教徒ではないから巡礼はしない」と言うと、なんとなくつまらなそうな顔をする。なかには軽蔑したまなざしで見る者もいる。なんで軽蔑されるのか、全く心外である。雲竹斎はれっきとした仏教徒である。イスラム教の聖地に巡礼しなくてはいけない理由はどこにもない。 日本の巡礼はたった一人であっても菅笠に「同行二人」と墨書して、お大師様と一緒に詣でることを意味しているが、いつ詣でるかはその人の自由である。また、誰に命令されるものではない。ところが、イスラム教徒の巡礼は、一年の内「決められて日」に「集団で」聖地メッカへ詣でることを言う。ここが日本人の巡礼と違う。決められた日とはイスラムの暦で第12の月で、8日から10日までの間にさまざまな儀式が行われる。毎度のことながら、イスラム暦は我々が使っている太陽暦と違って純粋な太陰暦だから一年がおよそ11日短い。だから、12の月は冬とは限らず、真夏であることもある。春と秋は、たとえ地域的にあっても、日本より短いから、極端に暑いか寒い、といった気候である。こういったことをその都度説明しないと、頭の弱いわが友人たちには理解できないから疲れる。 イスラム教徒は、必ず巡礼しなければならないわけではないが、可能な限り行うようにと、イスラムの法によって定められたものである。巡礼は決められた日に、同じイスラム教徒が集団でメッカに詣でることを正式な巡礼と呼んで、決められた日の巡礼以外の日に、個人的にカーバ神殿に参詣するのは「ウムラ」といって、単なる「カーバ詣で」である。また、各地の聖地を訪れながらメッカに向かうのが、敬虔なイスラム教徒の正式な巡礼だという人も多い。どちらにしても篤い信仰の表れであることには間違いない。だから、みんな挙ってカーバ詣でをする。 この巡礼をハッジというが、イスラム教の大切な五行の一つで、預言者ムハンマドの生誕の地サウジアラビアのメッカ市にあるカーバ神殿を訪れる。メッカ市は、サウジアラビアの紅海に近い荒れ果てた岩山に囲まれた町で、そこにカーバ神殿がある。カーバ神殿は、『旧約聖書』に出てくるアブラハム(イブラーヒム)が建設したとされている石造りの建物で、モスクの中庭の中央にある。 イスラム教徒にとってメッカへの巡礼が生涯最大の願いだから、この時期には世界中から富める者も貧しい者も関係なく、メッカへメッカへと目指し、その数は200万人とも300万人ともいわれ、郊外の空地は天幕を張って寝泊まりする巡礼者で埋め尽くされるという。メッカでの儀式は、カーバ神殿の周りをコーランの一節を唱えながら、左回りに7回まわって神殿にはめ込まれた黒い石に口づけをし、その後、近くの丘を7回行ったり来たりする。そして懴悔をして、メッカの谷に向かって小石を7回投げて、悪魔を追い払う儀式を行って終わるというが、この他にもまだまだたくさんの儀式があって、それを全員が揃って秩序正しく定められた順序や方法で、整然とこの儀式を行う。イスラム教徒は、二枚の白い布を纏うことになっているが、カーバ神殿にある井戸の水にこの布を浸して持ち帰る。この水は「ザムザムの聖水」といわれ、万病に効く霊験あらたかな水とされている。死ぬとき、この布にくるまれて埋葬される。 今日でこそ、飛行機の安いチャーター便やら、冷暖房完備の大型バスでのツアーなどがあるが、交通機関の発達していなかったひと頃前までは、巡礼の旅はまさに命がけであったに違いない。しかし、交通機関が発達した今でも、貧しい者も多いし、また各地の聖地を訪れながらメッカに向かうのが、敬虔なイスラム教徒の正式な巡礼だという人も多いので、銘々が寝具や鍋釜を持ってバスやトラックを連ねて旅をする団体も多い。夕方ともなれば、経由地の街はずれの広場には無数の天幕が張られ、巡礼の人々の夕食の煙が雑踏の砂埃りと共に夕暮れの空を覆う。これだけの大人数で移動するから、病人や怪我人も多く、この時期は病院も忙しくなり、赤い三日月マークを付けた救急車の出動も頻繁になって来る。巡礼をする人たちには、沿線の各町や村では最高最大のもてなしをすることが神の心にかなった行為とされているが、この時期が夏にあたる年はコレラや赤痢など感染症の対策が最大の問題ともなっており、巡礼者も一般市民たちも大変な時期である。それだけに、昔は命がけの巡礼を果たして来た者は、その出身地では英雄で、「ハッジ(女性はハッジャ)」と称することを許され、名誉ある職に就くことになる。田舎では今でも名刺に仰々しく「ハッジ某」と肩書をつけて印刷している者もいるくらいである。この儀式が終わると、「巡礼明けの儀式」として羊や山羊を屠り、生贄とする。この巡礼明けの儀式は「イード・アル・アドハー」といい、メッカだけでなく各家庭でも行われるから、この日屠られる羊や山羊の数は数百万頭に上るという。 雲竹斎はイスラム教徒ではないから、メッカに行ってカーバ神殿を見たくてもできない。ここはイスラム教にとっては神聖な地だから、イスラム教徒以外の者は入ることも見ることも許されないからだ。当然、メッカや巡礼の様子など実際に見たわけではない。だからといって「〜だという」とか「聞いた話では」という言葉を付けると、疑い深い友人たちは一切信用しなくなるから、自分が体験したことがない巡礼の話は、質問されればボロが出るといけないから、あまりしないことにしている。 |
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| 2011.11.21 | 第61回:雲竹斎先生の歴史文化講座−「中東・アラブ社会 (9)」 | |
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| 預言者の後継者をめぐって(宗派) イラク問題でもイランの核問題などでも「シーア派」という言葉がマスコミにたびたび報道されるから、シーア派はイスラム教徒の大部分を占めていると誤解している人も多いようだが、シーア派は全イスラム教徒のおよそ1割に過ぎない。ほとんどのイスラム教徒はスンニー派(スンナ派)と呼ばれる宗派である。なぜ1割に過ぎないシーア派がマスコミによく登場するかといえば、現在世界に注目されているイラクもイランも国民が主としてシーア派イスラム教徒だからである。 処刑されたイラクの故サッダーム・フセインは、シーア派が多いイラクでイスラム教の主流派であるスンニー派だった。フセイン体制が崩壊して、同じシーア派であるイランの影響が強まることにアラブ諸国は警戒している。その理由はアラブ民族国家のイラクがペルシャ民族であるイランの影響を強く受ければアラブの結束に亀裂が生じること、またイランの急進的な思想がアラブ各国に影響することを恐れていることなどからである。 イスラム教の宗派はハワリージュ派、スンニー派とシーア派に大別される。ハワリージュ派は、カリフ(預言者の後継者)はムハンマドの親戚縁者ではなく広く一般の信者から選ぶべきだという考えで、アズラク派やイバード派などの分派があるが、現在では信者が極めて少数になってしまった。 スンニー派は、イスラム教徒の大部分を占めている宗派である。スンニー派を正統派と言っている人もいるが、それはシーア派が第4代カリフ(預言者の後継者の意)のアリーとその子孫が正当なカリフだとする一派で、かつ少数派だからであろう。第4代カリフのアリーは預言者の従兄弟で預言者の娘ファーティマの婿だという説もあるが、第3代カリフ・ウスマーンの家系であるウマイヤ家のムアーウィアと争って第4代カリフに就任した。ところが、アリーはハワリージュ派によって暗殺されてしまい、これによりウマイヤ家がカリフを世襲して、ダマスカスを首都とするウマイヤ朝(667?750)を成立させた。アリーの支持者たちは、アリーの子供ホセインを擁してイラク南部のカルバラの平野でウマイヤ家と戦うが、西暦680年10月10日衆寡敵せず敗退した。この悲劇によって、イスラム歴の10月10日は「アシュラ」といってシーア派の「服喪の日」となっている。 シーア派は、後継者をイマームと呼び、神によって任命された最高権威者とした。もともとイマームとは、金曜日にモスクにおける集団礼拝の先導者であり、そこから転じて指導者の意味に使われるが、シーア派にとっては現世における最高の権威を持つ者とされている。なお、9世紀ごろよりイスラム帝国が衰退しはじめて多くの王朝が興ったが、それらの君主はカリフではなくスルタンの称号を用いた。イスラム教の長は預言者の後継者であるカリフを名乗ったが、特に11世紀以降カリフの存在はイスラム世界の精神的な長の名称にすぎず、君主たちは王朝の支配者という意味のスルタンの称号を、カリフから与えられ、政治的権力を委任された、という形式をとった。 礼拝や断食をしないイスラム教徒(シーア派の分派) シーア派は第4代カリフ(預言者の後継者)のアリーとその子孫が正当なカリフだとする一派だと説明したが、このシーア派にはたくさんの分派がある。そのなかでも、アリー以前の3代のカリフを含めて一切のカリフの権威を認めないとする12イマーム派が多数派である。この宗派は、イランでは圧倒的多数で、イラクやバハレーンでも過半数であり、レバノン、シリアにも若干信者がいる。この12イマーム派のなかから、第7代イマームは第6代イマームの長子イスマイールが正統とするイスマイール派という分派ができた。この一派は10世紀には北アフリカで勢力を伸ばし、アッバース朝を打倒し、エジプトでファーティマ朝(973?1171)を興すが、ファーティマ朝が衰退するとともに、この宗派からムスタリー派とニザーリ派が分派した。 ムスタリー派は、イエメンやインドに移り、ニザーリ派はシリア北西部、イラン北東部、アフガニスタンやインド、東アフリカなどに点在する。この派はイラクやシリアの山中から暗殺団(アサッシン)を送り出したことで有名になった。アサッシンとは、ハシーシー(覚醒剤)からきた言葉で、ハシーシーを飲んで興奮状態を高め暗殺を行った。 同じくイスマイール派の分派が、アラウィー派とドルーズ派である。アラウィー派は、別名ヌサイリー派とも呼ばれ、極度にアリーを神格化するが、東方キリスト教会からも多くの儀式を取り入れた。現在、シリア北部山岳地帯に多く、シリアのアサド大統領がこの宗派であり、スンニー派イスラム教徒が大部分を占めているシリアの政権はこの宗派出身者で固められている。イラクの独裁者だったサッダーム・フセイン元大統領は、イラクでは少数派のスンニー派で、アサド大統領がシリアでは少数派のシーア派の出身で、どちらも少数派の出身というのがおもしろい。 ドルーズ派という一派は、シーア派のなかでも独特の宗派である。イスマイール派のファーティマ朝カリフ、ハーキムを「隠れイマーム」とする一派だが、一日5回の礼拝もしないし、メッカ詣でもせず、ラマダーンもしない。南部レバノン、シリア西南部に多い。 そのほかに、ザイード派という一派がある。スンニー派に極めて近い信条や戒律で、イエメン北部では支配的である。全イスラム教徒の1割にすぎないシーア派だが、このように多くの分派があり、非常に複雑である。 ≪閑話≫ イスラム教原理主義と呼ぶのは正しくない 友人から「イスラム原理主義組織っていうのがあるが、原理主義ってなんだ?」と聞かれた。説明しようと思ったが、横にいたもう一人が、「そりゃ、おめぇ、タリバンやヒズボラなど、あっちこっちで戦闘を引き起こしいる連中のことだろう」と言った。それで、「ああそうかぁ」で、この話は終わった。 しかし、それは正確ではない。宗教上の「原理」とは大変難しい問題である。たとえばキリスト教においては『聖書』の記述を絶対的に信じて現代科学を信じない人たちがいる。こういった人たちを原理主義者という場合があるが、そういう意味においては、イスラム教は原理主義そのものであって、十数億人いると言われているイスラム教徒全員が原理主義者である。したがって、イスラム教に原理主義という言葉を使うのは正しくない。あえて言うならば「イスラム復興主義」とでも言うべきであろう。 それは、近代化を図りながらも西欧社会を否定し、イスラムの教えに忠実な社会を目指すことを主張する。つまり、預言者ムハンマドが目指したイスラム共同体(ウンマ)を興し、イスラムの法(シャーリア)に厳格な社会を目指すもので、スンニー派(ワハーッブ派)のサウジアラビアやシーア派のイランが代表的な国である。したがって、アフガニスタン問題やイラク戦争などでよく登場したタリバンやパレスチナ問題で登場するヒズボラなどの組織は、原理主義ではなく「急進派」あるいは「過激派」とでも呼ぶべきである。 スンニー派の分派であるワッハーブ派は、サウジアラビアの国教となっているが、18世紀にアラビア半島で復古主義者ムハンマド・イブン・アブドゥル・アル・ワッハーブによって提唱された。これは耐乏と簡素な生活を主張し、イスラムの純化を図る思想で、現国王家のイブン・サウード家と同盟し支配権を得た。したがって、サウジアラビアの法律はイランなどと同様に厳格なイスラム法によるから、犯罪もイスラム法にのっとって裁かれる。 また、スーフィズムというイスラム神秘主義がある。修道僧的禁欲主義で、スーフィとはアラビア語で羊毛を指す言葉だが、修道僧が着ていた羊毛で作られた粗末な衣服から命名された。現在のトルコのイスラムはこの影響が強いという。自らを厳しく律することで神の意思に同化することを求める極めて厳しい修行をする集団である。 こういったことは、友人たちには説明しない。彼らの脳みそでは、このような微妙かつ難しい話は理解できないことが分かっているからだ。理解させようとすれば、単純な脳みそが沸騰して、こちらが火傷する。一文の得にもならないのに、あえて火傷まですることはないのだ。 |
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